自分へのご褒美裁判は、裁判官の判定がザルである。
今週のお題は「自分にご褒美」だった。人間らしさを象徴する言葉の極みであると思う。
そも言葉とは、お人間さまが太古の昔に手に入れた文明革新ツールであり、その重要さは現代人のスマホに匹敵する。
言葉がなければ今でも密林でジャガーを追いかけてうごうご暮らしていた可能性が高いし、現代人とてスマホを取り上げられたら時候の挨拶すら碌に書けず、親族同僚から爪弾き待ったなしとなる。
だがスマホの場合、頼んでもいない歩数カウント機能で運動不足を突きつけてきたり、誘われていない同窓会の画像をタイムラインでお知らせしてくるという、有能すぎて残酷まである機能も搭載している。
使いこなすのは難しく、情緒が安定した大人向けのツールと言える。
勿論私のように情緒が安定しない味が強い大人は、前述の通り日々傷ついているのだが。
一方で言葉の場合、その目的はいたってシンプルである。
即ち「他者に意思を伝える」というものだ。
シンプルが故に新規ユーザーにも優しい仕様である。オギャアスタートの赤子でさえ2、3年もすれば「ヤー!!!」と深夜にストロングな怒りを伝えてくるほど、使いこなすのは容易だ。
だがこの言葉というツールは大人向けのアレンジ機能も搭載している。
他者に意思を伝える、という本来の機能から外れた使用方法であり、詰まるところ、メッセージの送り先を「他者」から「自分」にする機能であった。
それこそが、そう「自分へのご褒美」である。
ようやっと本題に戻ってこれた。
さてこの言葉は一体、どこを向いて発信しているのか。
自分へのご褒美というくらいだから、十中八九自分でブツを購入し、自らのために使用しているのだろう。
直訳すれば「物欲センサーが反応したのでポチりました」くらいの情報量だ。
これを聞かされたところで、他人様は「はーん?」と耳を穿るくらいしかすることはない。
日常会話で使えば友人が勢いよく減少しそうな言葉であるにも関わらず、お題になるくらいに市民権を得ているのは何故か。
要するに、皆便利に使っているからであろう。
主に自らを騙す手段として。
思うにこの言葉のキモは、ご褒美という響きにあるのではないか。
あたかも誰かに頑張りが認められ、推しいただいたかのような、まろやかな口当たりである。
冷静に考えてみれば犯行から判決まで全て自分のガバガバ裁判であるのだが。
「今日は1万歩歩いたからご褒美にハーゲンダッツ」。
「給料日だからご褒美にガチャ」。
ストレートに「腹が減ったので甘味を喰らった」「金が入ったのでぶん回した。推しは出なかった」でよいではないか。
それを聞いたところで責めるような暇な他人様はおるまい。
我々は、唯一残された「己の良心」に苛まれたくないがため、このように欺瞞の言葉を紡ぐことを止めないのである。
世界から戦争が無くならないように、己を偽ることが無くなる事はない。仕方のないことだろう。それが人間というものである。
私もまた同様だ。
こうして書き上げたご褒美に、返す刀でアプリを起動して、ガチャを回してくるつもりである。